僕がブクブクしているだけのブログ

何か凄いブクブクしています

 

 

3月末に祖母が死んだ。12月末に死んだ祖父を追いかけたのだろうか。そんな死だった。老人ホームで夜中に「気分が悪い」と言った後あっさり死んだ。私が聞いたのはそれだけだった。

祖母はどこにでもいる普通の祖母だった。祖父が死んだとき、祖母の手を握って、励ましたことを思い出した。あれが最後の会話だった。嘘はなかった。罪悪感はあった。

ぼんやりしていたら葬式は終わっていた。周囲の人間はやはり泣いていた。感情はどこまでもフラットだった。好きでも嫌いでもない有名人が死んだ第一報を聞いた時のような感情の流れしかなかった。泣いていない親族は私と弟だけだった。祖父の葬式の時も、泣いていないのは私と弟だけだった。弟の運転する車で火葬場に向かった。二人きりの車内で、「そんなもんだよな」と弟が自分に言い聞かせるように呟いた。弟を盗み見た。まだ若いのに既に髪が薄い。可哀そうだと思った。弟の頭部から目を背け、フロントガラス越しの長閑な風景を見つめながら「そんなもんだよ」とだけ私は答えた。開けた窓から侵入してくる春の日差しが喪服に染みた。「姉ちゃん、スピーチのとき泣いてたな」と弟はおどけるように言った。今回は一番上の姉がスピーチをしていた。「姉さんは優しいからね」と答えて、脳内で長く息を吐いた。

火葬場に用意されていた弁当を幼い姪に食べさせた。咀嚼のたびに膨らむ頬は赤く瑞々しかった。この世に残った祖母の骨は黄ばんだ灰色だった。熱気を纏うそれを箸でつまんで壷に入れた。

その日のうちに特急列車に乗って帰った。疲れることもなかった。なにも起こらなかったのとまるで同じだった。

祖父が最後まで手放さなかったのは預金通帳だった。クリスマスにその預金通帳を盗み見た。それを電話で指示された。高級な老人ホームに入ると言っているが、それに足る金額を本当に祖父が有しているのかが親族たちの心配事だったのだ。手術中邪魔だからと祖父に預けられた鍵を使い、病室の金庫を開けた。必要なこととはいえ、本当に浅ましいことをしていると思うと脳が歪むようだった。そこに印字されていた見たこともない数字の羅列が祖父の人生の総てだったのだろうか。今となっては分からない。祖父はもういない。そして祖母もいなくなった。見たこともない金額の紙幣と宝石と家だけが残った。それがなんだというのだろう。我々は一体なにを残されたというのか。死を喜ぶ薄暗い感情とどこまでも動かない凪の海のような無感情。そんなものは欲しくはなかった。だが、結局それ等が残されてしまった。

1月に死んだ小鳥の写真を未だにきちんと見ることができない。死んだ瞬間に縮こまっていった小さな細い身体を今でもふと思い出す。寂しがり屋で身体が弱くて頭が悪かった。まるで私みたいだと思って可愛がった。でも死んだ。まだ2歳だった。もうすぐ3歳だった。彼女を私が殺したのではないだろうかと荒唐無稽な罪悪感がどうしてもとれない。私が祖父の死を笑ったからこそ、葬式の次の日に奪われたのではないかとどこかで思っている。神は与え、そして神は奪う。

「それらの出来事の影響が出ているのでしょう」と人は言った。喜ばしい死と身が裂けるほどに辛い死と凪の海のような死。それ等が三か月のうちに起こったのが、特に前者ふたつが連続して起こったのが、原因かもしれないという。そうかもしれません、と言う私に「だから時間がたてば落ち着いてくると思いますよ」と人は励ますように言葉をかけた。時間がたてば。確かにその通りだ。大体の物事は時間がたてば解決する。ある程度割り切って生きるしかない。人間の有するシステムというのは実に奇妙だ。遅れて影響が出てくるというのは一体どういうことなのだろう。

日常を普通に生きているが、次の瞬間には死んでいてもおかしくない。それは様々な意味でそうだ。いつなにが起きるかなんて誰にも分からない。いくら自らの生存や存続を心から望んでいても、ぷつんと切れたら最後、そこで総てが終わるかもしれない。深い穴の上に張られた綱の上を歩いているのが、我々の生であり日常だ。いつかは全員どのような形であれ穴に落ちていく。

もう少しどうにかならなかったのかと誰に問うわけでもなく問いかけている。たぶん自分に向かって問いかけている。特に解答はない。問いかけること自体に意味もない。

もう少しだけでもいいから、総てがどうにかならなかったのか。